記録

ふちがみとふなとの渕上純子さんが観客が記録することについて文章を書かれてて、その文章がとても説得力のあるものだった。

ツイッターでそのことを書いたらRTが100近くになってしまい「考えの発表はいまのところこの末端の小さな一角にとどめたく思います。」という純ちゃんの意向に反するようで申し訳ない気持ちになった。

なのでここではその文章のリンクは貼りません。

演奏者としての立場からとても納得のいく言葉です。

企画や観客側の立場でもやはり記録に関してはいろいろ思うことは多い。

これは純ちゃんの文への補足でもなんでもなく、演奏者以外の立場から、それでもなぜ「記録」にこだわるか、ということをこれをきっかけに書いておきたい、ということだと思ってください。

以前ジム・オルークさんの大友さんとの対談の中での「なぜ、そんなに音楽を自分のものにしようとするのか?」という問いかけがずっと頭の中に残ってます。

ライヴを企画するとき、その時の演奏を全ての集中力と神経を注いで聴いて欲しい、と思ってます。それは思い上がりかもしれないとは思いつつも。(だって楽しみ方は人それぞれだから)

だから撮影や録音をしてる人を見ると「なんてもったいない」と思います。だって録音や撮影してると「その時の」「その瞬間の」音はけっして聴けないでしょう。

ライヴを記録するということは、映像や音を後で見返す&聴き直す(もっと言えば単なる記念)ために音を自分のものにしようとしてる、ということではないんでしょうか?

その時に演奏者と聞き手の関係はどうなるんでしょう?

放たれた音は誰のものでもない、確かにそうだけどだからといって自分のものにしてもいいわけじゃない、とも思ってます。

せっかくの「その時の」「その瞬間の」音を聴くということは演奏者と聴き手とに何事にも変えられない関係が出来ることでもあります。
あります、って決めつけてるけど、そんな関係を築く可能性があることはライヴに行く人は誰も否定できないんじゃないかな?

それは具体的なつながりが出来る、というような目に見えるようなことじゃないけど。
うまく言葉に出来ないが、その時の音を共有するというような単純なことでもない。
どんな関係性かは言葉足らずで言えないが、それでも一切の会話はなくとも聴き手と演奏者との間には密接で濃い関係は出来ると確信してます。内容がよければ良いほど。

音楽を聴きに行く、という行為には多分もっと色んな可能性があると思うし、企画する側としてはその可能性がはっきり見えたら、と思いながらやってます。

だから録音撮影してる人を見ると単純にもったいない、と思ってしまうんだよな。頼むからこの音に集中してくれ、心底、今、楽しんでくれ、と思う。

権利関係だけの問題ではないんですよ。

あと、これは付け足しですが、

企画する側が録音撮影(もちろんお客さんの邪魔にならないようにするのは当然のこととして)するのは半ば義務だと思ってました。(他の方は知りませんが)
もしかするといい演奏で、後で音源化することもあるかもしれない、そう思って録音するのですが今までの経験でそんなことは1000に1つもありません。
単なる記録目的で録音するのも最近はそれほどやってません。ライヴと音源として発表するものは全く別物、音源化目的でライヴ録音しても10回のうちに1回も成功しません。そんなものです。
そんなことに気を遣うよりその時の演奏がいいものになるように全力を尽くした方が良い結果が出ますね。

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