理由と「たかが音楽」について

 長文です。 

 日曜、月曜と穂高亜希子さんのレコーディングでこの地震で大変な状況にある東京に向かった。

 実は東京に向かうのには自分の中で大きな葛藤があった。余震、原発でただでさえ大変な状況にあり、しかももっとひどくなることも予想され、もし万が一の状態になった場合は東京にとってのただのお荷物ストレンジャーになってしまうことも考えられたからだ。こんな状況の中わざわざ東京に観光に行く人がいないのと同じことですね。観光じゃないんだけどさ。

 他の仕事をしながらのレーベル活動、レーベルで食っていくことはできない、いやそもそも考えていない、そのこともあとで書く。レコーディングにもわざわざ立ち会わなくても何とかその日に出来ると行ってくれた参加メンバーにおまかせして何とか進めることは出来る。
 そういう状況で今の東京に行く必要があるのか。でも行きたいと思った。万が一のことがあったとしても覚悟を決めて、と言うと大げさだが。

 行きの新幹線の中でずいぶんいろんなことを考えた。今までの苦労は大抵お金と時間。どちらもがんばればなんとかなる。だから今まで考えなかったのかもしれない。こんな状況で別に儲かりもしないし、時間と体力を費やし危険と他人への迷惑の可能性もあるなかわざわざ東京に向かう自分はいったい何なんだろう?

 自分がやってることはどういう意味を持つのか?別に仕事じゃない。いや仕事としてやってる人と同じレベルのことはやってるつもりだがそれで食っていくという意味では仕事ではない。じゃ趣味なのか、もし趣味だとすればこの状況の中、東京に向かっているのはどういうことだ?なんのためにCDを作ってるんだ?そもそもなぜ音楽に関わってる?今までもそういうことは漠然と考えたことはあったが今度ほど深く考えたことはなかった。

 この間、大友さんのjamjamラジオにゲストで出た際、ラジオで流す音源を選ぶときに頭に浮かんだのが「大友さんに聴かせたい」だった。ラジオの構成とかレーベルの宣伝とか考えられなかった。自分はただの音楽ファン、いやそう言ってしまうと音楽ファンの人に失礼になってしまうほどもう深く関わりすぎてる(作る側に回ったという意味でも)かもしれないが、やはり元々普通の音楽ファンなのだ。

 ラジオで流す音源持ってきて、と言われても自分の好きな音楽を目の前の人に聴かせて「おっ、いいね」と喜んでもらいたい。そのことしか考えられなかった。
 ここでも以前何回か書いてことがあるが、CDを作ることは家でホーム・パーティーするとき友人に自分の好きなCDを聴かせるのとまったく動機としては同じ。
 自分が好きで素晴らしいと思った音楽を人に聴いてもらって喜んでもらったらうれしい。多分それだけの理由だ。
 だからプロじゃないんですよ。本来の意味の仕事にも出来ない。ただ聴いてもらう人や関わる人に対する礼儀としてプロ並みのことはやるけどさ、それは当然のこと。

 だからこの間の録音の時も、穂高さんのCDが出来たら、「こんなにいいのがあるよ」って駅でただで1万枚くらいばらまきたいくらいの気持ちだった。どんどんいろんな人に聴いて欲しいとCDを作る度にそう思う。力不足でいろんな人に聴いてもらうことはなかなか出来ないが。

 ここから二つめの本題。

 >ライブの開催について今こそ歌が必要だのとか言う人もいるがたかが音楽。開催するか見に来るかはそれぞれの意志。音楽に余計な期待をするな。たかが音楽と思いながら懸命にやってる。<ツイッターでこう書いたのは中川五郎さんがライヴを中止したことに対して今こそ歌が必要だから是非唄ってくれとツイートがあったから。

 中川さんは今の状況では唄えないと書いていた、それにもかかわらずのツイートだった。実はこれについ怒ってしまったのだ。だからちょっと乱暴な物言いになってしまって反省してる。

 しかしはっきり言って音楽を舐めるな、と思った。必要か必要でないかは人が決めるもんじゃない。音楽はそれこそ誰もが(じゃないかもしれないが)懸命に発するが、それをどう受け止めるかは聴いた人のモノ。それと同じように音楽は発する人のモノ。聴いた人が音楽がどういうモノであるか決めるのは自由だ。でもそれを発する側に押しつけないで欲しい。歌えないと言ってる人に唄が今必要だと言えるだろうか?じゃ唄が必要でないときはあるのか?そもそも必要不必要じゃないんだと思う。

 どうか音楽を道具にしないで欲しい。いや聴いた人が道具にするのは勝手だ。元気になるのも涙を流すのも勝手にやってもらったらいいかもしれない。でも音楽を発する側はそんなことなんか考えない。発したいから発してるのだ。

 個人的には素晴らしい音楽を聴いたときには涙を流したりも元気になったりもするが、もっと訳の分からない感情になるときもある。どうしていいかわからない、今と違う場所に連れて行かれたような気持ち、その時、まったく新しい世界にいる、そんな経験を何度かしたから音楽から離れられないのだ。

 元気になったり涙を流す音楽だってそりゃ素晴らしい。でも道具として聴かれる限り、新しい世界はない。そして発する側はその新しい世界を作れたらと思ってるのだ、少なくともそう思ってCDを作ってる。

  音楽なんか無くったって生きていける。でも音楽で素晴らしい経験をしたことがあるから離れられない。それでも音楽が無くても生きていける。だから「たかが」で「懸命」だったのだ。

 繰り返し言います。頼むから音楽を道具にしないで欲しい。音楽をチャリティに使うのが当然みたいなことにならないで欲しい。チャリティに参加してるミュージシャンは今見てる限りではやはり皆葛藤があります。必ずチャリティにするためらいみたいなモノを書いている。それは当然なんですよ。発する側は決して音楽を「道具」にされたくないから。
 それでもチャリティを計画してたり参加したたりする人たちはすごいとおもう。その行動力を素晴らしいと思う。たかが音楽、だから道具にされようがそれでなにかができるならそれで良い。その立場もよく分かる。とても素晴らしいと思う。だから余計に音楽を道具と思わないでください。

 play for japanに参加したのは数回のメールで迅速にできるから。MP3に対する嫌悪感もあるしチャリティに参加しなくても個人的に義援金を出したらいいかもしれない。でも数回のメールで数十万、もしかしたら数百万のお金を集めることが出来るならば、出来ることはやろうと思いました。

 しかしもうこれで音楽をチャリティにするのは最後にしようと思ってます。支援は違う方法で、出来ることを。

 
3月13日 お気に入り 返信 削除

“理由と「たかが音楽」について” への1件の返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。