林君の思い出

 今日のDOMMUNEでの非常階段で若い頃の林(直人)君の姿を見ていろいろ思い出した。

 パンク/ニューウェイヴ、ノイズ創世時に関西独特のスタイルの基礎を築いたのは林君であるのは間違いない。
 もし林君がいなかったら関西の音楽は全く違ったかたちになったと思う。もしかしたらボアダムズすらうまれてなかったかもしれない。

 そんな林君も酔っぱらったら、というか始終酔っぱらってたけど、関西で1,2を争うほどややこしい人間だった。

 不法駐輪している自転車の列の中を無理矢理歩く。エレベーターの中の見知らぬおじさんを無言でにらみ続ける、関西弁が嫌いと言ってるミュージシャンにわざとべたべたの関西弁で絡んで、挙げ句の果てに笑いながら殴られる、ちょっと思い出すだけでもややこしいなー。

 これは以前のサイトでも紹介したことがある話だけど、京都で友人の家で一緒に飲んでたら「石橋君も人の世話ばかりせんと自分でたまには演奏してみたら」と言われたことがある。
 「いや、人の面倒見てるつもりちゃうし」と言っても全然聞いてくれず「シルバーマシーン(ホークウィンドのね)ならできるやろ、俺がバックやったるし。ノイズやったらできるやろ。トークはどうや?」

 この繰り返しが約3時間。しかもずっとプロレス技をかけながら。もう面倒くさいから何の抵抗もしなかったらベアーズのスケジュール押さえてしまってた。

 もちろん出るわけない、承知してないし。当日ベアーズは空きになったそうで後で林君にやんわり(というかねちねちと)怒られた。怒られるいわれはもちろんない。

 DOMMUNEでも流れた同志社大学での非常階段のライヴは本にも書かれているとおり、開始数分で林君の水平投げしたシンバルでPAシールドが切れてPAの意味は全くなくなってた。

 それでPA担当者としてできることは暴れまくるメンバーからは機材を守ることだけ。
 
 当日最初からべろべろだった林君になぜかそのことを感謝され、「蔵六の奇病」がリリースされたとき「あの時はありがとう!お礼にレコードに石橋君の名前載せといたからな、石橋君も今日から非常階段や」。
 
 でもレコードくれなかった。しかも非常階段や、って言われてもそううれしくなかったし。

 ある時林君の家に遊びに行ったとき、着ていたTシャツを見て、それなんのTシャツや?、と聞かれて「○○(林君の大嫌いな人間)からもらった」とつい言ってしまったら、無言でびりびり破かれて「そんなん着てたらアカン、これに着替え!」とモーターヘッドのTシャツ無理矢理着せられた。モーターヘッドの音は好きだけどTシャツは派手すぎて困った。

 林君の所有のレコード(壁一面のレコード)沢山聴こうと思ったらアモン・デュールのディザスター聴かせてもらっただけで、あとはのりおよしおの秘蔵VTRを朝まで。一晩ずっとのりおよしおの漫才。

 ややこしいけどものすごく優しかったし人に対する気遣いもすごかった。だから誰にでも(あ〜ややこしと思いながらも)好かれてたし、みんな林君に言うことは聞いていた。

 なにより音楽に対する考え方が厳しくてかつ柔軟だったこと。

 関西の音楽における手塚治虫みたいなもんだな。会ったことも見たことも聴いたこともなくてもどこかしらに必ずその影響を及ぼしてるという意味で。
 

“林君の思い出” への6件の返信

  1. ほんまにええ話、有難うございます。
    林君と呑みに行って、二人とも酔っ払って、帰る道すがら、全ての電柱に、彼がラリアットかましてたのを思い出しました。一生懸命、止めたんやけども、あかんやって、彼の右腕は腫れあがってました。当たり前やね、電柱に加減無しでラリアットするんやさかい。
    「君は、ハンセンやのうてホーガン(に似とるん)やさかい、それは違うんちゃうんか」と、電柱の合間合間で言うたけど、聞いてくれんかったなぁ。
    今日の演奏も少しは彼に届いたでしょうか?

  2. 電信柱にラリアットって、なかなか「らしい」。

    しかし林君がモノにはあたっても人を殴ったりしてたことは覚えている限り一回もないな。

    いっそドツイテくれた方がましと思った人はいたかもしれないけど。

  3. 林さんで覚えてることのひとつ、エッグプラントでべろべろに酔って歌い出した美川さんを「えーい、うっとうしい!」って空いてるスタジオに放り込んで電機消して真っ暗にして。それでも暗闇の中で歌い続ける美川さん。なんかふたりともすごいなーと思って横で見てました。

  4. こんにちは、

    やっぱりアホやな、二人とも。

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