大友良英サウンドトラックスVol.0のリリースで関係者各位に連絡したとき、サントラに参加している青木タイセイさんから
私達の望むものは」の歌詞についてどう思うか、みたいなメールが来た。
その返事も含め、ここで書くことにします。
実は「私達の望むものは」は自分にとって印象深い曲なのだ。というのも日本語の歌詞をしばらく聴きたくなくなった曲だからだ。
ここで歌われる「私達」というくくりが思春期の自分にとってはどうしても許せなかった。簡単に「達」と言って引き込むな、と自意識過剰な思春期の小僧は思ったわけだ。
他の日本語の歌詞も全て簡単に仲間意識を作ってそれの同族意識を無理矢理強いるような、そんな感じがして日本語の曲は何年も聴きたくなくなった。
同じ日本語でも「僕」や「俺」の実態が希薄なはっぴえんどやムーンライダーズの方が好きでよく聴いていた。
「風街ろまん」の中ジャケの路面電車や火の玉ボーイの街角のイラストのような、「人間」ではなく「街」の無機質なものを感じさせる音楽の方が好きだった。
年齢的に学生運動世代から微妙に下の世代、しかも西部講堂という学生運動の残り火みたいなところにいたから、全共闘世代からはずいぶんいじめられたような気がする。
しかし、その意見も全て実態の見えない「私達」でくくられた意見であって、「個」としての言葉はなかったような気がする。 だからいつも話はすれ違い。
しかも80年代初等くらいまでは、自分の生活や命などどうでもいい、世の中を変えるために命をかけるのだ、といっていた世代が90年代になって車に平気で「命と生活を守る」というステッカーを貼っていたことにあきれかえってしまった。
ある時には全共闘時代の闘争の場所を巡るバス・ツァーというとんでもない企画にうれしそうに参加すると言った親父がいて、おもわず「おまえら馬鹿じゃないのか」といってしまったけど、薄ら笑いで返されただけだった。
「私達」と言っていた世代は最初から「個」がなかったのではないか?「個」から始める発想など持つことすらできなかったのではないか?その疑問は本当は「私達の望むものは」を初めて聴いたときから始まっていたのかもしれない。
「私達」の発想は実はフリー・ジャズの世界にもあったと思う。「私達」の運動としてのフリー・ジャズ、その幻想を作り上げるためにミュージシャンは自分に尽くす人間を組織しようとした。
「個」の世界をお互いで考慮することはない。ひたすら「私」の世界を「私達」の世界にしようとするむなしい努力が至るところでなされていた。
その結果80年代末期には本当に日本各地の主催者は金銭的にも心情的にも末期状態になっていたのだ。
90年代になって圧倒的な「個」の存在であるジョン・ゾーンが日本に住みだして一気に状況が変わった。つまらない幻想にしがみつくことがどれだけ無意味か、それがわかったことから新たに日本のフリー・ジャズ界が始まったと言っても良いと思う。
さて「私達の望むものは」の歌詞に話を戻せば、発表されてから何十年もたつその歌詞を今見ればなんと「私達」の希薄なことか。「私達」を望んでも「私達」にはどうしてもなれないジレンマと「私達」になっていまさらどうだ、という諦念に溢れているように聞こえる。
岡林信康さんがこの歌詞を作ったときにはどういう心情だったかはわからないが結果的に(時もあるけど)いろんな読み取り方のできる歌詞だな、と思った。しかし決して好きな歌詞じゃないけど。